



資料館のある平和記念公園へは、広島電鉄の原爆ドーム前電停が最寄りとなります. 太田川と元安川に挟まれた中洲の北端に位置するおよそ10.7haもの広大な面積を有する『平和記念公園』は、原爆投下から9年後の1954年に完成しました. 世界遺産にもなっている「原爆ドーム
(旧広島県産業奨励館)」の周辺は多くの観光客で賑わっていました. 私が訪問した時は日本人よりも欧米系の人が多かったです.
老朽化によって建て替えられた元安橋を渡って南に進めば、資料館をはじめとした公園のメインエリアへと到着します. この平和公園の設計コンペを勝ち取り、資料館をふくむマスタープランを手掛けたのは日本近代建築の重鎮 丹下健三氏でした. 丹下氏が誕生したのが1913年ですので、設計当時の年齢が40代前半でしょうか、非常に若手の時期に手掛けられた初期の代表作としても知られています.
資料館北側には、式典でおなじみの『慰霊碑』と『平和の灯』が資料館中心から一直線の軸をなして並んでいます. この慰霊碑は元々彫刻家のイサム・ノグチ氏が担当していましたが、日系米人という出身が当時の風当たりとして強く、丹下氏が再設計したのも、当時のアメリカ人への忌避感を強く色付けていると感じます. 余談ですがコンペ時の案はこれではなく、アメリカにある「ゲートウェイアーチ
(設計:エーロ・サーリネン)」のような巨大モニュメントが構想されていました.



慰霊碑のエリアを通って資料館に着きました. 公園のメインエリアには3つの施設が建っており、各施設へは渡り廊下を介してアクセスが可能となっています. 資料館は中央の本館、東にある東館の2棟が該当します. 西側にあるのは同じく丹下氏が手がけた「広島国際会議場」で、元々「広島市公会堂」として建設されたものを同様のデザインで立て替えたものです.
水平性のある直方体の巨大なボリュームを支える太い列柱、垂直性のある縦方向のルーバーなど水平・垂直性の効いたモダニズムの傑作がここにあります. 1階ピロティの列柱は、丹下氏が強い影響を受けていた巨匠 ル・コルビュジエの名作「ユニテ・ダビタシオン」を参考にしたといわれています. 日本建築の『ひさし』と『縁側』を公共建築に生かそうとして生まれたこの資料館は、後世の建築界に高く評価され
「香川県庁舎」と並んでDOCOMOMO20選に、
「世界平和記念聖堂」と並んで戦後建物としては初となる重要文化財にも指定されています.





それでは館内へと入っていきます. 順路としては東館から券を購入して2階に上がり渡り廊下で本館へ、ぐるっと一周した後に階段でピロティに降りるという感じです. 2階の展示室から1階のピロティに出る構成は、コルビュジエの弟子だった坂倉準三氏の
「鎌倉館」でも見られたもので、コルビュジエに影響された建築家に共通するものに感じます. 入場料は大人50円、東館の展示は改修工事のため見れませんでした
(2016年10月 再開館予定).
原爆を扱うテーマ性だけあって、展示内容な非常に重いです. とりわけ被災直後の生写真の画像は、当時の惨状を生々しく映しており、胸の奥がキューっと締め付けられ、戦争の行く末は悲しいなとひしひしと感させられます. 原爆投下から70年以上が経ち、当時の惨状を知る人も年々少なくなっています. この資料館は、その当時の記録を後世に伝える重要なものとして今後もあり続けるでしょう. あの展示は誰もが一度は見るべきだと思います.
資料館の窓からは、写真のように慰霊碑・平和の灯、そして原爆ドームが一直線に並んだ平和公園の景色を見ることができます. 実は丹下氏のコンペ案が採用された要素として、この原爆ドームまでの『南北の軸』があります. 平和公園のコンペ敷地としては蚊帳の外だった原爆ドームも関連させ、都市スケールの軸線で計画するというのは、当時としては斬新かつ革新的だったといわれています.





展示も見終わって、階段からピロティへと出て来ました. 時刻は夕暮れ、観光客もあまり見られません. 今でこそ高層ビルが周辺に立ち並ぶ広島の市街地ですが、開館当時は低層住宅が多かったため、この資料館はよりいっそう象徴的な『ヒロシマの顔』として佇んでいたことでしょう. そう思うと、周辺のビル群によって阻害されゆくこの景観に、一抹のむず痒さも感じてしまったりてました.
兼ねてから興味があった建築の一つではありましたが、実際に見るとスケールや柱の力強さに圧倒されます. 建築だけでなく、ヒロシマの悲劇を知るためにも一度は足を運ぶことをお薦めします. では今回はここまでです.
- 関連記事
-
コメント